昭和50年05月09日 朝の御理解
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、貰に行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
例えば盗人じゃと言うても乞食じゃと言うてもと、云う事はぎりぎり極端な、もうどんな人でも顔色を変えるというか、腹を立てねばおられない様な事だと思うですね。ですから必ずしも乞食とか、泥棒とかと云う事ではない。もうそれこそその瞬時、瞬間かぁっとこう腹を立てなければおられん。それこそ顔色が変る事を申しますね。腹を立てると心の中がぱっと腹立ちがそのまま、何というですかね、血液と言うか顔色が変わるです。もう途端に柔らかい顔が険になるです。
そう云う事ではならん稽古を信心によって鍛えて行くのです。だからもうあのお徳を受けて行くと言った事なんかは、もうその瞬間に決まるんです。ですからもう一歩でひだっとったら、例えそれがならその目の前がそれこそ真っ暗になる様な大変な難儀な問題であってもそうです。難儀な問題というのは、もう生々とした事実なのですからね。もう生きてますからね、この難儀というのは。
だからこちらの心が生きなければ受け止められないんです。例えばあの佐田さん方の火事の時に、佐田の奥さんのお届けに見えた時に何か余程嬉しか事のあったとじゃろうかと云う風にしてお届けされました。もう笑いが止まらんちゃう位でした。もうね例えばあのー難はみかげと仰るから、こう云う難儀な事になったけれども、又難儀はおかげと仰るから、是をおかげにして行かにゃんならんと云う程度の事ではないです。
成程そういう生き方、受け方でおかげは受けて行きますよ。けれども私は、徳にはならんと思うですね。徳と云う物はもう災難その物はもう、生々とした事実なのですから、例えばべんぷをパチッと弾かれると云う事はもう、弾かれると言う事はもうその瞬間弾かれたと云う事は、もう生々としている事なんですから。だからこちらも、何で俺をくらわすのかと言うたらもうお終いなんですよ。そんなに例えば最後の所にしっかり信心の帯をせよと仰るのは、だからしとかなければいけないと言うのです。
それこそキリストではないけれども、右の頬を打たれたら左の頬を出せという位のね、その瞬時で決まるのです。もうあっ痛!と言うたらもうおそかです。ね。例えば鴨居で頭を打ってから、ああ痛よと言うて鴨居を叩くごとあっちゃおかげにならんです。もう鴨居で頭を打った瞬間すみませんとかね、有難いとかいうものが出でこなけりゃ駄目です。是は本当ですよ。叩かれた瞬間にすみません日頃心の中に言うならば生々として、お粗末御無礼を感じとっておるからです。
是が鍛えられて行く時にです、佐田さんじゃないけれども、例えば火事で丸焼けになったと言うのにね、何か笑いが止まらない様な物が出来ておるとう云う様な、是は日頃信心の稽古をしっかり、信心の帯をしとらなければ出来る事じゃないと云う事です。難儀に直面した。本当に信心しよってどうしてこう言う様な事が起こったのであろうか。まあそれでも深い神様の御神慮に違いないからと信心は止めない。けどもさあ是を一つ是からおかげにして行かなければならん。
もう是はねおかげにはなります。そういう生き方は純粋な素直な生き方ですから、けどもどうしてこう云う事が起こったかと思うたら、それはお徳にはならんと思うといて下さい。間違いないですから。だから日頃信心の稽古をして、信心の稽古もしっかり信心の帯を締めておかんとね、咄嗟に出てこないのです。べんぷ弾かれちから、どうして弾くかと言うたらもう駄目ですね。相手が誰であれべんぷ弾かれた、すみません。その人に言うのじゃないですよ。叩いた人にすみませんといのではないですよ。
神様にすみませんとと言うのが一番に出て来る様なおかげが頂けるです。信心の稽古をして、しっかり信心の帯を締めておる時には。勿論顔色どん顔色ども変える様な事ではお徳は受けられません。もう昔でしたけれども、草野にある七十二才で何度目かの奥さんを貰われた方が御座いました。奥さんが半分年でした。所が子供さんが出来られました。七十二で。奥さんが若いからです。奥さんが元気があるからです。まあだ奥さんが生々としとられるからです。
そのお爺さんが、つい吊り込まれて生々として来る訳ですね。とあのその当時評判になりました位でしたがね。私は今日皆さんに解って頂きたいとこは、そこを解って頂きたいのです。私共がね例えば叩かれたと、馬鹿と言われた、乞食といわれたと云う様な時でもです、済みませんとか有難う御座いますとかね、そういう心が瞬時にね。だからもう腹どん立てたら絶対こげん馬鹿らしか事はないですよ。あの人はもうすぐ腹がえいけんすぐプリッとさっしゃる。こげな人は大体お徳は受けられませんですね。
久留米の初代の石橋先生じゃないですけれどもね、小倉の御大祭の後に、それこそ沢山のお弟子さん方、それこそ綺羅星の様な先生方ばかりがずらっと直会を頂かれる。その言うならば上の方に座っとられたに違いありません。石橋先生ですからね。桂先生がここに座っとられるなら、すぐ傍に座っておられた。しかも下の方にゃまだ若い弟子さん達やら、沢山の方がおられたでしょうけれども、そういう所謂満座の中でね、桂先生が面と向かって、石橋先生に仰った。
「石橋さん、あんたげの息子は馬鹿じゃね」と仰った。誰でも顔色が変わりますよね。所がどっこい石橋先生は信心の帯をしっかりしてござったから、「親先生おかげで信心が出来ます」と仰った。ね。「石橋さん、でかした」と言うて一番に盃を差されたという話が残っとります。それなんですよ。この満座の中で。それがね事実そんな感じだったんです。若先生が御長男が石橋先生の、それは御神前では立派な先生でした。本当に立派というかむしろ厳しい先生でした。神様から色々お知らせを頂かれるし。
私がまだ修行の真っ最中の時分でしたけれども、お参りさせて頂いて、それでそのお届けをさして頂いたが、誰ぁれもお参りがあってなかったが、すぐお届帳を持って御神殿に出られました。そして私が大坪総一郎てんなんてん、三井教会の信者てんそんな事は知っとられない様な感じでした。そして御祈念をそれぇもう御記念なんかは凄しい御祈念をなさりょうりましたです。
もう親先生といっちょん変わらんちゅって皆んなが言っとりました。一旦御結界を降りられると何かバタバタ壊れられるという感じでした。やっぱりお小さい時に高い所から落ちて頭を打たれたんですね。矢張り普通で言うならばもう役に立たんとでしょうけれども、矢張り親先生の御神徳が残っとる証拠に、そういうおかげを受けておられた。丁度御神前からそのお結界まで下がられる間にです、「この氏子おかげを受けるわい」私はもうびっくりしました。
とても石橋先生のお声じゃないと思うたです。そういう先生でしたよ。もうそういう時ですから、もう力になります事がねこちらが頂いとって、御神前からお結界に下がられる間にです、別に御理解なさる訳でもなからなければどうでもない。お知らせなど頂かれると、こういう風なお知らせを頂いたと、自分で理解付けはようは出来なさらなかったですね。けれどもそう云う様な特殊な、言わば御神徳に触れられた方でしたけれども、そこん所を指摘して石橋先生に仰った訳ですね。桂先生が。
石橋さんあんたんところの息子は馬鹿じゃねと仰った。馬鹿じゃらどうあるか、例えていうなら、普通で言う所でしょう、ね。ほんな事じゃから。お前にはお世話にならんぞと、喧嘩にもなりかねない所でしょう。所が「親先生おかげで信心が出来ます」と仰ったね。私はお徳を受けるのはその瞬時にです、その瞬間です決まるのは。そのお徳がいうならば、自然に育って行くのです。
云うならば七十二にもなる御爺さんと若い女が一緒になった時に、若い女の人が生々としておるから、つい吊り込まれる様にして、普通ならとても役に立つ所じゃないと思うですね。私共の考えでは。けれども相手が若いから、吊り込まれてから、その瞬時にいうならば、懐妊する訳ですね。その瞬時にお徳のいうならば懐妊する訳です。それを段々育てられて行く時にいうならば、お徳になる訳です。
ですからどうでも信心の帯をしっかりしなければいけないと云う事が解ります。只毎日参りよります位の事では駄目です。第一ねもう腹どん立てるてん、こげな馬鹿らして事はないですよ。それこそ毒消ししゃいらんかねぇじゃなかばってんね、それこそその毒を消す位な早さで今まで反対にです、どんなに薬が効いとっても、反対に毒を飲んだように消えるですよ。その人の信心が。
だから本当にあれがあげん言うたけん、顔が変わったとか、それにお前何ごと言いよるかというて喧嘩どんする事ではもう、先ず絶対本当に御神徳は受けられないと云う事です。その瞬間それこそ「親先生」とこう言える心なんですね。おかげで信心が出来とりますとこう云う事なんです。それは災難、難はみかげと仰るから、その難儀な事から修行が出来てね、そしておかげを受けると言う生き方もありますよ。
けれどもそれでは実を言うたら本当の事ではないです。一歩一ぽよろよろと後に退っとる。難儀と見とるもん。難儀じゃない神愛として、もう即頂けると云う事なんです。今日私は、御神徳と云う物はです、もうその瞬時に決まるものだと。その為に言うならばしっかり信心の帯をせよと云う事に、しっかり信心の帯をしておる。只信心しよりますと云う事では駄目、信心の帯がしっかり出来ておる時にです。
あぁおかげ頂いたと、又は神様相すみません、と心からお詫びが出来る。同時に腹ども立てる様な事では、先ずお徳は受けられない。自分は是位の事でこげん腹の立つ、是じゃ先ず自分はおかげの受けられんはずだと云う事を一つ思わにゃいけません。たった是位の事に心が暗くなる。こん位の事じゃお徳は受けられんと、悟らして貰うて、愈々一段と信心の帯を本気で締め上げさせて行かなければいけないと思いますね。
どうぞ。